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会津若松城
読み・・・あいづわかまつじょう
所在地・・・福島県会津若松市追手町
別称・・・鶴ヶ城、黒川城
築城年・・・1384年
築城者・・・葦名直盛
主な城主・・・葦名氏、蒲生氏、上杉氏、松平氏
葦名氏の始まり
葦名氏の祖は佐原義連(三浦氏4代目義明の子)である。三浦氏は桓武平氏の流れを組む三浦半島の豪族で、鎌倉幕府の有力御家人であった。奥州藤原氏を討った後、その軍功として義連は会津の地を与えられ、これにより佐原氏が会津に入ったのである。
義連の孫達は、それぞれ猪苗代氏、北田氏、藤倉氏、葦名氏、加納氏、新宮氏と分派した。この中で佐原氏を継いだ光盛が葦名姓を名乗り始める。
1384年、7代目直盛の時に東黒川館を築いた。これが会津若松城の前進となり、葦名氏はその後勢力を拡大していく。
葦名氏の最盛期
勢力を拡大しつつある葦名氏も、盛詮(11代目)とその子盛高(12代目)の頃には、重臣が反乱を起こるようになり苦しめられた。特に1505年に起こった盛高とその子盛滋の争いは大きな内乱で、これも重臣らの争いが元になっている。
盛高の死後、盛滋が家督を継いだが早死にし、盛滋の後は弟盛舜が継ぐことになった。盛舜の頃から内乱はおさまり、盛舜の子盛氏の頃には葦名氏の最盛期を迎える。三春の田村氏、猪苗代の猪苗代氏、二本松の畠山氏、須賀川の二階堂氏などを従え、また伊達氏、白河結城氏とは同盟を結ぶ。
相次ぐ当主の死
1568年に葦名盛氏は子盛興に家督を譲るも、盛興は嫡子を残す前に亡くなってしまった。そのために、二階堂盛義の子盛隆を養子に迎えて葦名家を相続させることになる。ところが、盛氏が死去すると盛隆に対して重臣の反発が強まり、しまいには家臣に殺されてしまった。
盛隆の後は盛隆の子亀王丸が跡を継ぐも、亀王丸はまだ産まれたばかりの赤ん坊である。その亀王丸もわずか3歳で死去し、亀王丸の後継問題が勃発する。伊達政宗の弟小次郎を迎える派と、佐竹義重の次男義広を迎える派に家中は分裂し、その結果として佐竹義広が当主として迎えられた。
義広が20代目の葦名家の当主になると、葦名氏と佐竹氏の結びつきは強固になった。この関係を政宗は快く思わない。1589年に葦名義広と伊達政宗は摺上原(すりあげはら)で戦い、義広は大敗して常陸へと逃げた。
伊達氏、蒲生氏、上杉氏
摺上原で葦名氏を破った伊達政宗は、黒川城(会津若松城)に入った。
小田原征伐の後、政宗は会津の地を取り上げられて代わりに蒲生氏郷が入る。会津に入った氏郷は、城の改修を大々的に行い、現在の会津若松城の基礎を作った。また、氏郷は黒川の地を若松、城の名を鶴ヶ城と改めた。
1598年には上杉景勝が蒲生氏に代わって会津若松に入ったが、関ヶ原の戦いで西軍についた景勝は会津を失って米沢に移った。景勝の後は蒲生氏郷の子秀行が入るが、嗣子がいないために蒲生氏は断絶した。
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