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伊治城
読み・・・いじじょう(これはりじょう)
所在地・・・宮城県栗原市築館城生野(旧築館町)
築城年・・・767年
築城者・・・律令政府
伊治公砦麻呂の乱
伊治城は767年に造営され、栗原地方の蝦夷支配の拠点として設けられた。その後、移民が行われて栗原郡を設けて、その領域を拡大した。
伊治城での出来事で有名なものといえば、伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱である。
その乱は、780年、上治郡の大領である伊治公砦麻呂が、東北の最高指揮官である按察使(あぜち)の紀広純と牡鹿郡の大領道島大楯を殺害した。そして伊治公砦麻呂は、多賀城まで攻め入ってこれを落とし、放火したという事件である。
伊治公砦麻呂は、栗原地方の蝦夷の族長で、伊治城が造営された時には蝦夷集団を率いて服属し、その造営の協力の功績によって夷爵第二等と伊治公のウジとカバネを得た。また、777年の征討に参加して功績をあげ、翌年には外従五位下を与えられて一般官人の身分を得たのである。その後、上治郡が置かれてその大領に任命されたのであった。
伊治公砦麻呂の乱は、東北の地は混乱させ、その後の律令政府と蝦夷との長い抗争の要因にもなった。
弩の「機」の発見
伊治城の発掘調査によって、弩の発射装置部分である「機」が発見された。
弩は、文献上ではその存在が知られていたものの、実物が発見されないために幻の武器となっていた。だが、伊治城で「機」が発掘されたことによって、その存在が証明されたのである。
伊治城で弩が出土されたということは、その使用目的が蝦夷制圧にあったことを示している。
<現在の状況>
国道4号線沿いに伊治城がある。古代の城ではあるが、土塁が残っているのは素晴らしい。
なお、城内にある資料館には面白い展示物があり、一緒に訪れると良い。
<あわせて読みたいページ>
「多賀城」伊治公砦麻呂が攻め込んだ、奥州の政庁。
伊治城の地図→