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古河公方館
読み・・・こがくぼうやかた
所在地・・・茨城県古河市鴻巣(旧古河市)
別称・・・鴻巣館
築城年・・・室町時代
築城者・・・足利成氏
主な城主・・・古河公方足利氏
成氏、鎌倉公方へ
鎌倉公方足利持氏の遺児で後に古河公方となる足利成氏は、1440〜41年に起きた結城合戦時、信濃大井氏のもとにいたようだが、成氏の幼少時代は不明な点が多い。
その成氏が鎌倉へ帰り、1449年に鎌倉公方に就任した。当時政治の実権を握っていた関東管領上杉氏は、関東諸将と対立が続いており、成氏を接点にして関東諸将を抱き込もうとしたのである。
鎌倉公方足利成氏の誕生により、関東諸将は鎌倉に集まってきたが、次第に鎌倉公方成氏と、政治の実権を握っている関東管領上杉氏との間に対立が起こってくる。それは当然の成り行きだった。
1450年4月、上杉氏の家臣長尾景仲と太田資清らが、江の島に動座した成氏を襲撃するという事件が起こった(江の島合戦)。成氏方では、宇都宮、小山、千葉、小田氏などが活躍し、長尾氏と太田氏を破った。成氏は長尾氏と太田氏の処分を幕府に願い出たが、幕府はそれを受けつけず、長尾氏と太田氏は赦免され復権した。幕府は従来通りの関東管領と上杉氏による鎌倉府体制を望んでいたのである。
享徳の大乱と都鄙和睦
1454年12月、成氏は関東管領である上杉憲忠を殺害し、上杉氏に大きな打撃を与えた。その後、成氏と上杉氏の間で合戦が繰り広げられるようになる(享徳の大乱)。
上杉憲忠を失った上杉家は、幕府の支持を取りつけた。幕府は後花園天皇から成氏追討の御旗を下賜され、京で奉公していた憲忠の弟房顕を憲忠の後継者として選び関東へ派遣した。越後上杉氏や駿河今川氏などがこれに応じ、成氏は1455年6月下総古河へと本拠を移して「古河公方」と称した。
成氏が古河に移った後、成氏は騎西城に佐々木氏、関宿城に簗田氏、栗橋城に野田氏などを配置して上杉氏に対抗した。一方上杉氏は、前線基地として武蔵五十子に巨大な野戦陣地を構築し、さらに江戸城、岩槻城、河越城を整備した。
1463年に上杉景仲、1466年に関東管領上杉房顕が死去し、やがて上杉軍は古河から成氏を追わせることに成功するのだが、上杉軍には古河を支配下にするだけの力はなく、成氏は翌1472年に再び古河へ戻った。
1473年6月、長尾景信が他界すると、関東管領上杉房顕の跡を継いだ顕定は、景信の後継者に景信の子景春ではなく、景信の弟忠景を選んだ。この決定に不服の景春は、1476年に上杉方の前線基地である五十子の陣を攻撃し、翌1477年1月に陥落させた。つまり、上杉軍の中から反乱者が出たのである。この動きに対し、扇谷上杉氏の家宰太田道潅は、景春に寝返った諸将を次々と滅ぼしていく大活躍を見せるのだが、この活躍が後に道潅を死へと追いやる原因にもなってしまう。
ただ、景春の反乱によって、成氏と上杉氏との間に和睦の動きが見られるようになり、1482年に和睦が成立した。この和睦を都鄙和睦という。
両上杉氏の対立
長尾景春の反乱に際し、太田道潅の勇名は轟いた。道潅の活躍は、扇谷上杉氏の当主定正にとっては不安の種であり(結果、1486年7月に道潅を暗殺する。もっとも、これには山内上杉顕定の甘言が裏にあった)、また、山内上杉氏の当主顕定にとっては扇谷上杉氏の勢力台頭が気にかかっていた。
両上杉氏の対立は表面化して長享の大乱が起こり、扇谷上杉定正は古河公方足利政氏(成氏の子)と結んで山内上杉氏に対抗、各地で戦闘が起こった。
ところが、1494年に扇谷上杉定正が死ぬと、今度は山内上杉氏と古河公方が結びつくようになった。山内上杉顕定は古河公方の「御一家」となり、そのことで扇谷上杉氏に対抗した。山内上杉顕定は古河公方家の権力の一部を担い、そして足利政氏の子(顕実)を後継者として関東管領にすることとなった。
1504年9月、武蔵立河原で古河公方・山内上杉連合軍と扇谷上杉軍が激突し、扇谷上杉軍が後北条氏と駿河今川氏の応援によって勝利したが、翌年には古河公方・山内上杉連合軍が扇谷上杉氏の居城河越城を包囲し、両上杉氏の間に和睦が成った。
この両上杉氏の和睦の裏には、北条早雲の動きがあったことも見逃せない。北条早雲は、1491年に堀越公方足利茶々丸を討って伊豆一国を平定、1495年には相模の小田原城を奪い取っているのである。
政氏、高基、義明
1506年、古河公方足利政氏の嫡子高基は、宇都宮成綱(17代)を頼って古河から宇都宮へ移座した。高基が宇都宮へ行った理由は、父政氏との対立、つまり権力争いであった。
高基と政氏の対立は、高基が1509年に古河へ帰ったことで解決したが、事態はこれでおさまらなかった。
1510年、高基は今度は関宿の簗田高助を頼って関宿城へ移り、さらに独自の勢力を持っていた高基の弟である義明は祗園城に入った。そして成氏、高基、義明の3者の間に対立が起きた。その位置関係は、1511年に上杉顕実(政氏の子、政氏派)が上杉憲房(顕定の養子、高基派)によって鉢形城を追われ、成氏が祗園城へ入り、高基が古河城へ、義明が小山領に入部という具合に変化した。
その後、高基と義明は結びついて父政氏と対立、政氏は1516年に武蔵岩槻城へ移って出家し、その後武蔵久喜(足利政氏館)に移って同地で1531年に没した(ちなみに、1520年に政氏は古河の高基を訪ね、両者の溝は修復している)。
政氏が岩槻、久喜へと移ったことによって、高基は古河公方の権力闘争に勝利し、古河公方となった高基は、上杉顕実追放後、関東管領となった上杉憲房のもとに養子として自分の子(後の憲寛)を送り込んだ。
小弓公方義明
高基が古河公方となると、高基と義明の対立が起こってきた。
義明は下総小弓城に入り、義明は「小弓公方」となった。義明は独自勢力をもって高基と対抗したのであったが、どうやら義明の権力基盤は高基と同じようなものであったらしい。つまり、高基の権力基盤を義明が部分的に奪取して小弓公方が成立したのである。
高基は、義明の追放と上総における高基の基盤を回復するため、1519年に武田氏の椎津城を攻撃した。これに対し義明は、関宿城の攻撃を企て、その企ては今後も続いて行く。
さて、1528年に高基の子晴氏が元服すると、高基と晴氏の間に権力争いが起こるようになった。この争いに敗れた高基は隠居し、1535年に没した。こうして、高基対義明の対立は、晴氏対義明と図式が変わることになった。
古河公方となった晴氏は、北条氏と結び義明に対抗した。晴氏と北条氏との結びつきは結果的に、1538年10月、下総高府台合戦における義明の敗北、そして義明の滅亡へと繋がっていくのである。
古河公方と北条氏の関係
高府台での戦い後、北条氏綱の娘(後の芳春院、以下芳春院と称す)と晴氏との間に婚姻関係ができ(もっとも、これよりも以前から婚姻話はあった)、その後まもなく古河公方5代目となる義氏が生まれた。このことは同時に、北条氏の勢力が古河公方の内部に入ってきたことでもあった。
北条氏の勢いはめざましく、両上杉氏の諸城を次々と攻略していった。扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は1545年9月、北条氏に奪われた河越城を攻撃し、上杉氏は晴氏に援軍を要請した。北条氏は晴氏に中立を訴えたが、晴氏は上杉軍を救援して北条氏と敵対した。晴氏にしてみれば、北条氏の圧力からの脱却を図ったのだが、この戦いは北条軍の勝利に終わり、北条氏の圧力がより一層古河公方家に入ってくることになってしまった。
晴氏の嫡子藤氏(晴氏と簗田氏の娘との子)が元服すると、晴氏は藤氏とともに古河公方家を盛り返そうとしたが、北条氏の圧力によって古河公方の地位は晴氏から芳春院を母とする義氏へと譲られた。
この古河公方義氏の成立は、北条氏が古河公方権力を支配下に置いたものとまでは呼べず、古河公方の権力を北条氏は否定したわけではなかった。ただ、古河公方が権力を維持することができたのは背後に北条氏の存在があるからであり、古河公方の存在(公方の「御下知」行為)を使って北条氏の領国支配が展開されるようになっていく。
問題は、北条氏が古河公方の権力をどのようにして支配できるかであった。その役目を担う人物として、芳春院と芳春院周興の存在がある。北条氏はこの2人を媒介することによって、古河公方の権力を支配しようとしていった。
越相同盟
河越合戦において敗れた山内上杉憲政は、謙信の庇護を受けており、謙信は憲政を奉じて関東へ乗り込んだ。
謙信の勢いは凄まじく、1561年3月には小田原城へ達した。謙信は兵糧の都合上から小田原城攻めを諦め、鶴岡八幡宮へ向かい、同地で山内上杉憲政から関東管領職を譲られた。
謙信の関東進出は、簗田氏の立場を反義氏・北条氏へと変え、さらに、新公方擁立の動きが持ち上がった。その新公方に藤氏が迎えられたのである。
1565年、北条氏は岩槻城と江戸城を前線基地として簗田氏がいる関宿城を攻撃した。この攻撃は簗田氏の抵抗にあって失敗する。
1568年頃、北条氏は野田氏の栗橋城を古河公方義氏を通して手に入れ、同城に北条氏照を入れたのである。このことは、簗田氏にとって脅威となり、北条氏は1568年10月に再度関宿城を攻撃した。これに対し簗田氏は、上杉謙信に応援を求めて何とか危機を乗り切った。
1569年閏5月、北条氏と上杉氏との間に同盟(越相同盟)が結ばれた。越相同盟締結に際し、それまで藤氏を公方に立てていた謙信は、藤氏がすでに死去していることから、義氏を公方とすることに妥協した。こうして義氏は正式に古河公方として諸勢力から承認されることになり、当時鎌倉にいた義氏は古河へ移ることとなった。
1574年、北条氏は3回目の関宿城攻撃を実行し、この第三次関宿合戦において簗田氏は降伏した。
第三次関宿合戦後、北条氏は1575年に祗園城を落城させ、1577年には逆井城を築城するなどし、北関東進出への準備を進めていった。それに伴い、古河城も整備されて戦国の城へと姿を変えていき、祗園城の後衛基地としての役割を持つようになった。また、越相同盟や関宿合戦によって、北条氏は古河公方の権力を支配下に置くこととなった。
両足利氏の統一
1582年、古河公方足利義氏は古河城で死去し、義氏の跡を継いだのは、9歳の氏姫であった。
氏姫を支えたのは、「御連判衆」と呼ばれる者達で、その主な人物は、芳春院松嶺、一色氏久、町野義俊、小笠原氏長、高氏師、簗田助実、永仙院昌伊。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡する。北条氏滅亡後、氏姫は古河城から鴻巣館(古河公方館)へと移って鴻巣御所と称され、また氏姫には332石が与えられた。
氏姫は、秀吉の処置に対して感謝の意を表するため女房衆を謝礼の使者として送った。その際秀吉は、氏姫の婚姻話を持ち出した。その相手は、古河公方3代目高基の弟で小弓公方と呼ばれた義明の孫国朝。
小弓足利氏は安房里見氏という後ろ盾があったが、里見氏が小田原攻めに遅参したためによりこれを失った。重要な後ろ盾をなくした小弓足利氏は、国朝の姉が秀吉に取り入れられて、国朝は喜連川に所領を得ることとなった。そして氏姫と国朝の婚姻話となり、古河足利氏と小弓足利氏との間で婚姻関係が結ばれたのである。
氏姫と国朝の婚姻によって、古河足利氏と小弓足利氏は統一された。古河足利氏の伝統的な権限であった関東十刹の住職任命権が小弓足利氏に受け継がれることになったように、小弓足利氏が古河足利氏を吸収した形となった。
だが、両足利氏が統一されたというのは表面的なことにすぎず、氏姫は喜連川には行かずに鴻巣館に居続けた。そして間もなく、国朝が朝鮮出兵中に病死すると、秀吉は国朝の弟頼氏と氏姫を再婚させるのだが、氏姫は依然として鴻巣館に居続けた。
やがて、頼氏と氏姫との間に子供(義親)ができたが、義親は古河で一生を過ごし、義親は榊原忠政の娘を娶って尊信が生まれた。氏姫は1620年に死去、義親は1627年に死去、1630年には氏姫の夫である頼氏が死去した。頼氏の死によって、尊信は喜連川へ移ることとなり、こうして両足利氏は事実上統一された。尊氏が喜連川へ移った後、鴻巣館一帯は天領、その後古河藩に吸収された。
ちなみに、小弓足利氏である喜連川氏は5000石であったが、徳川氏と同族であるということから10万石の格式を与えられ、幕府から特別な存在として扱われたのである。
最後に、佐藤博信『古河公方足利氏の研究』と『古河市史』を参考した。詳細について知りたい方は、ご覧いただきたい。
足利成氏については、「足利成氏の墓」も参照。
<現在の状況>
古河公方館跡は、古河総合公園の中にあり、土塁と空堀が残っている。広大な公園を散策しながら、古河公方館跡を訪れてみるのも良い。
<あわせて読みたいページ>
「喜連川館」古河公方の子孫、喜連川氏の館。
「祇園城」古河公方を支えた小山氏の居城。
「関宿城」古河公方の家臣簗田氏の居城。
「足利成氏の墓」栃木県下都賀郡野木町にある、初代古河公方足利成氏の墓。
古河公方館の地図→