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松野北城
読み・・・まつのきたじょう
所在地・・・栃木県那須郡那珂川町松野(旧馬頭町)
築城年・・・不明
築城者・・・松野氏
主な城主・・・松野氏
松野合戦のこと
松野には松野氏関連の3つの城がある。松野氏が初めに居城とした畑の台館、後に居城とした松野南城、そして松野北城。
松野では、1584年9月に「松野合戦」が起こっている。以下は、『那須記』巻11「松野合戦の事 大屋又五郎討死事」の概略。
那須資晴が300騎を従えて、松野篤通・資通の城へ攻め込んだ。松野父子は那須勢を難所へと誘い出し、また鳥子氏が松野氏の援軍として駆けつけており、那須勢は資晴の身が危うくなるほどの大苦戦に陥った。
資晴を救おうと、資晴の弟牧野顕高とその子が鳥子勢の中へと入っていき奮戦する。那須勢は難所から退くも、松野・鳥子勢が追撃してきた。負傷者が多く、また土地に詳しくない那須勢は逃げ出し、そして討たれていった。
資晴は踏みとどまって軍勢を集めてみると、140騎か150騎になっていた。戦の継続を断念した資晴は、川を越えて旗を立てる。すると周辺から味方が集まり、200余騎になって退却した。
ところが、大屋宗国はこの動きに遅れてしまい1騎で逃げた。その様子を見た松野氏家臣の鈴木家通が宗国を追いかけて勝負を挑んだ。一騎打ちに応じた宗国は、家通に打ちかかって兜を強打させると、逃げることを優先して逃げた。家通は宗国を逃すまいと追いかけ、鎮守日光(二荒山神社?)の森に入ったが、宗国の姿が見えなくなってしまった。
やがて松野勢も森に入り、大屋宗国を探すも見つけられずに城へと戻る。宗国はちょうど良い頃合いを見て逃げようとした。この宗国の動きをあらかじめ読み、木陰に隠れていた家通は宗国を見つけ、そのことを叫んだ。これを聞いた松野勢が戻り、宗国を取り囲んで討ち取った。
那須勢34人、松野勢13人の者が、松野合戦で討ち取られたという。
なお那須資晴は同年10月、「向田合戦」で武茂氏と戦う。
<現在の状況>
松野北城がある山の周囲は柵で囲まれ、山へ入る唯一の入り口は西側にある。
城跡へは入りづらく、また急峻な山ではあるが、入ってみると段になって城が構築されているのが分かる。
<あわせて読みたいページ>
「畑の台館」松野氏初期の居城。
「松野南城」後に松野氏の居城となる。
「貞和の碑」畑の台館のすぐ東にある那珂川町最古の碑。
松野北城の地図→