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小田城


   

   

   

   

   

   

読み・・・おだじょう

所在地・・・茨城県つくば市小田

築城年・・・12世紀末

築城者・・・八田知家

主な城主・・・小田氏


八田知家

 小田氏の祖である八田知家は宇都宮氏2代目である八田宗綱の次男で、源頼朝に付き従って活躍した。その軍功により筑波郡を与えられ、1185年には常陸守護に任命された。その後、知家は鎌倉幕府の幕政に参加している。
 八田知家は頼朝の弟に当たるという説もあるくらいなので、よほど八田知家と頼朝の仲は深かったのだろう。小田城が築かれた年はよく分からないが、常陸守護に任命されたあたりのようである。
 その頃、小田城のすぐ近くの多気城にいた多気氏(常陸大掾)が常陸南部に勢力を持っていた。1193年に八田知家はこの多気氏と戦い、筑波山麓一体から多気氏の勢力を一掃したのである。

南北朝時代

 南北朝時代の小田氏の当主は治久(7代目)であった。
 後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕を計画を実行したが失敗して隠岐島に流された(元弘の変)。同じように、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した万里小路藤房が常陸に流された。この万里小路藤房を預かったのが治久である。万里小路藤房を預かってから治久の考え方が変わったようで、鎌倉幕府が滅亡した時、治久は万里小路藤房と共に上洛している。

 さて、後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると、ここに南北朝の動乱が始まった。
 1338年、北畠親房が常陸に上陸し、神宮寺城に入るも佐竹氏らに攻められ阿波崎城に移った。だが、再び佐竹氏らに攻められ、親房は小田城に逃げたのである。
 1339年、後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が跡を継いだ。親房はこのことを聞き、幼少である後村上天皇のために南朝の正統を主張した『神皇正統記』を著した(『職原抄』も著している)。
 1341年、足利方の高師冬の策略によって小田治久は城を開城し降伏、北畠親房は関城へと移って抗戦した。降伏した治久は、常陸守護職を取り上げられ、所領も削減されてしまった。

小田城の争奪戦

 戦国時代の小田氏の当主は氏治(15代)である。
 小田氏治は、結城氏、佐竹氏、上杉氏上杉氏などと戦い、以下のような小田城の激しい奪い合いをしている。
 1556年、結城軍が北条氏などの援軍を得て、山王堂で小田軍を破り、続いて小田城を落城させた。氏治は土浦城へ逃れたが、結城連合軍が小田城を放棄したため、氏治は間もなく小田城を奪還した。
 1558年、上杉謙信が上野に進出したことに伴い、佐竹氏・多賀谷氏は小田城を攻め落城させた。氏治は土浦城へ逃げたが、翌年奪還する。
 1564年1月、上杉氏・宇都宮氏・佐竹氏の軍勢と山王堂で小田軍は戦う。氏治は敗れて小田城で迎え撃つも城は落ち、氏治は土浦城へ逃げた。間もなく氏治は小田城を奪還する。謙信からの攻撃は1566年2月にも行われて小田城は攻略されている。
 1569年、佐竹軍の進撃によって小田城は占領された。氏治は土浦城へ逃れたが、これ以後小田城が氏治の手に戻ることはなかった。

 小田城を失った氏治は、1583年に佐竹氏に降ることになった。


<現在の状況>

 復元された小田城は見事以外に言葉がない。また、復元以外の場所でも、周辺の凹凸から郭の様子を探ることができ、見どころがたくさんある。


<あわせて読みたいページ>


 「神宮寺城」北畠親房が関東で最初に拠点とした城。

 「関城」南北朝時代に活躍した城。

小田城の地図→