山形城
所在地・・・山形県山形市霞城町
別称・・・霞ヶ城
築城年・・・1357年
築城者・・・斯波兼頼
主な城主・・・最上氏
斯波兼頼
斯波兼頼は出羽国司・按察使として1356年に山形に入部し、その翌年山形城を築城した。室町幕府は兼頼に、幕府勢力の拡大のため、出羽国から南朝勢力を追い払うことを命じた。兼頼が築城した山形城は、本丸程度の規模の館であったらしい。兼頼は軍事面よりも行政・経済面で手腕を発揮し、今日の山形市の礎をつくった。
最上氏
兼頼の子孫は山形に居住して最上を名乗った。そして、最上家の在地権力の強化を図る為に、領内の要所に子弟や家臣を配置し、それぞれに城を築かせた。これらの城は、応永年間(1394〜1428年)頃に築城された。しかし、文永年間(1469〜1487年)頃から、これらの勢力が独立の傾向を強くし、最上家の権力が衰えたことによって、最上宗家と対立。こうして戦国時代を迎えることになる。
最上義光時代の山形城
11代目の最上義光によって、山形城は本格的に拡張整備された。天正年間(1573〜1592年)には、最上宗家と対立する勢力を討伐平定し、最上家の権力回復に成功した。
1600年の関ヶ原の戦いの際、最上家は東軍についた。そのため、最上家は西軍の上杉家の名将直江兼続に攻められた。直江軍は、山形城付近まで攻め寄せてきたが、関ヶ原での敗報を伝えられた直江軍は急遽引き揚げ、山形城は戦火を免れた。その折、兼続が山形城の西にそびえる富神山に登り、山形城を望んだところ、かすみがかかって見えなかったところから、「霞ヶ城」といわれるようになったという。
義光は関ヶ原の戦いの功によって、置賜を除く山形全域を支配するに至り、57万石を領することになった。新領地の要所には家臣を配置し、最上家の全盛期を迎えた。
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