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網戸城
読み・・・あじとじょう
所在地・・・栃木県小山市網戸
築城年・・・1293〜99年
築城者・・・結城朝村
主な城主・・・網戸氏
寒河尼
寒河尼は、かつて源頼朝の乳母であった。その後、小山政光に嫁ぎ、小山朝政、長沼宗政、結城朝光の母となる。
1187年、寒河尼は源頼朝から寒河郡と阿志土(網戸)郷の地頭職に任じられた。すなわち、文治3年(1187)12月1日「源頼朝袖判下文」(皆川文書)に、
「下 下野国寒河郡並阿志土郷
可早以小山七郎朝光母堂為地頭職事
右件所、早以朝光之母、可令執行地頭職」
とあり、寒河郡と網戸郷の地頭職を小山朝光の母に与えられている。ちなみに小山朝光とは、結城氏の祖である。
網戸氏
寒河尼の死後、寒河郡と網戸郷の地頭職は朝光(結城氏の祖)が受け継いだ。さらに朝光の子の時光が「寒河氏」、同じく子の朝村が「網戸氏」を名乗っている。
南北朝時代、建武4年(1337)3月16日「後醍醐天皇綸旨写」(伊勢結城文書)で、白河結城氏の結城宗広は御醍醐天皇より「下野国寒河郡闕所」を与えられる。
当時の寒河郡の様子というのは、建武4(1337)8月23日「鎮守軍監有実奉書写断簡」(伊勢結城文書)によると、
「寒河郡十二郷内 六郷為闕所、先立拝領 残六郷領主等、今度悉成朝敵了」
とあり、寒河郡が12郷に分かれ、その内6郷は領主不在の「闕所」となっているために結城氏に与えられた。残りの6郷の領主については「朝敵」となっている。
「寒河郡」についての記録であるが、網戸についても同じであろうと考えられる。
網戸式部大夫基廣
室町時代の関東は、鎌倉公方が支配する地であった。その鎌倉公方に警戒心を抱くようになった将軍は、北関東の諸将と直接結んで「京都扶持衆」とし、鎌倉公方を牽制する動きを見せる。
京都扶持衆で常陸小栗城の小栗満重が鎌倉公方足利持氏と敵対すると、同じく京都扶持衆の宇都宮持綱は小栗氏に味方した。鎌倉公方は小栗氏を討伐すると、続いて宇都宮持綱討伐の軍を発し、持綱は敗走中に家来の塩谷教綱に討たれて亡くなった。1423年のことである。
この時、茂木氏の領内で、宇都宮持綱に味方して没落した日光山桜本坊の代官与藤五という者がいた。
茂木満知は、坂井郷の田谷村で、日光山桜本坊の代官与藤五が宇都宮持綱に同心し、没落したことを鎌倉府に報告した。
茂木氏の報告を受けた鎌倉府は、網戸氏と薬師寺氏に事実を調査するよう命じる。その調査結果が、応永30年(1423)12月29日「網戸式部大夫基廣請文」(茂木文書)で、
「茂木越中三郎満知申下野國茂木保坂井郷内田谷村事、日光山櫻本坊代官與藤五、宇都宮持綱残党輩同心仕、今度致御敵没落之條勿論候」
と、茂木氏の言う通り、確かに与藤五は宇都宮持綱に味方し没落していると報告しているのである。
この網戸式部大夫基廣が、網戸氏一族であることは間違いなく、また鎌倉公方に従っていることが分かる。
野田氏の領地に
時は下って戦国時代。
弘治3年(1557)6月17日の「足利義氏朱印状」(野田家文書)で、古河公方足利義氏が野田左衛門大夫(弘朝)に、
「一 馬場・奈良木両郷手本仁閣、網戸宮内大輔等綺之儀、不可有相違事、
一 網戸其方ヘ走廻之儀、被申付外、不可致無沙汰事、
一 網戸事、他之家中ヘ不可致懇意事、
右三ヶ条、為後日被仰出状如件、」
馬場郷と奈良木郷を栗橋城主の野田氏に与え、網戸氏は野田氏のために働くよう指示している。
これはまた、網戸宮内大輔なるものが網戸の地にいたことが分かるが、網戸の領主が網戸氏から野田氏へと移っていったことも分かる。
野田氏の変化
1560年、上杉謙信が関東へ進出し、北条氏と激戦を展開し始めた。
上杉氏の関東進出の背景には古河公方の問題が絡んでおり、古河公方足利義氏は、母が北条氏綱の娘であることから北条氏の血筋であった。上杉謙信は義氏を認めず、古河公方の重臣で簗田氏の娘を母とする藤氏(義氏の異母兄)を古河公方に据えようと考えていた。
その北条氏と上杉氏との戦いは、古河公方家の家臣にも変化を生じさせる。
戦の過程の中で、栗橋城主で網戸の領主でもあった野田氏は、当主が弘朝から弟の景範に変わった。そして景範は一時期の間、古河公方から離れて上杉方となった。景範は再び古河公方の元へ戻るものの、その間に入ったのが北条氏であった。
永禄10年(1567)5月8日、「北条氏照起請文写」(野田家文書)で、北条氏照が野田右馬助(景範)に、
「一 御自訴之儀、鎌倉様御前、涯分御取成可有之由候事、
一 尽未来貴方御進退、不可有別心之由候事、
付、有佞人申曲儀候者、幾度も尋可申由候事、
一 栗橋之地利御望有間敷由候事、」
と、氏照が野田氏と古河公方との間の取りなしをする。野田氏は今後離反しないこと(変なことを言う人がいたら、何度も問いなさい)。野田氏は栗橋城のことは望まない。以上、3つの内容の起請文を出した。
こうして野田氏は許されたが、表面上は古河公方の家臣であるが、事実上は北条氏への服属であった。
ところが翌年、野田氏が領していた網戸が別の者に与えられる問題が起こる。
豊前氏なる者
永禄11年(1568)5月18日、「足利義氏充行状写」(豊前氏古文書抄)で、古河公方足利義氏は豊前山城守の長年の功績を褒め、
「為御新恩網戸一跡ならびに馬場・柞木両郷被充行候」
と、網戸氏の旧領と、馬場郷と柞木(ならのき)郷を与えた。
この地は、元々は野田氏のものである。
北条氏政は、豊前氏に網戸の地が与えられることを、おそらく事前に知っていたのであろう。
北条氏政は永禄11年(1568)5月14日の「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)で豊前氏に対し、
「網戸之儀、野田被申事候哉、彼模様一円前後不存候」
網戸の件を野田氏が言っているようだが、そのことを知らないと氏政は言い、
「野田被申旨候者、鎌倉へ可有御披露候、其上可有御糺明」
野田氏との領地問題を古河公方足利義氏に伝え、事実を明らかにしてもらおうと提案するのである。
しかし北条氏政。
永禄11年(1568)5月26日「北条氏政披露状写」(豊前氏古文書抄)では、古河公方の奏者に対して、
「網戸一跡豊前山城守ニ被任下由存其旨候」
と言って、網戸を豊前氏に与えるよう働きかけているのである。
豊前氏は、古河公方の家臣である。豊前氏は医術に長けて出世し、また北条氏と古河公方との間に立っていた。ところが、北条氏と接するうちに、豊前氏は事実上の北条氏の家臣へと変化していったのである。
網戸の領地問題
網戸の領地問題は、永禄11年(1568)7月26日「足利義氏条目」(野田家文書)により決着し、
「網戸一跡豊前山城守可相渡由」
として、野田氏に対して網戸を豊前氏に渡すよう命令が下った。
豊前氏が網戸を正式に領したことを受け、永禄11年(1568)12月12日、北条氏政は「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)で、
「網戸一跡、自 鎌倉様御拝領候哉、尤目出珍重候、於氏政令得其意候」
網戸の領地を鎌倉公方足利義氏から拝領したことを祝いつつ、そして喜びを豊前氏に伝えている。
つまり、北条氏の力は、それまでは古河公方にだけ及んでいたが、古河公方の家臣に対しても影響を及ぼすようになっていった。
そのことにより、北条氏の力によって没落していった野田氏のような家臣もいれば、北条氏と結びつきを強くしたことで地位が向上していった豊前氏のような家臣もいる。
網戸の領地問題は、そういう北条氏と古河公方の関係の変化に、奇しくも絡んでいたのである。
<現在の状況>
城跡は、網戸神社、長慶寺が建ち、寒川尼と結城朝村の墓もある。城跡は田園風景が広がるが、どこか古の雰囲気を感じられる。
<あわせて読みたいページ>
「祇園城」寒川尼が嫁いだ、小山政光の居城。
「結城城」小山政光と寒川尼の子、結城朝光の居城。
「小谷城」網戸城から南西にある城。
<小山市の城一覧>
網戸城の地図→