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阿曽沼城





     


読み・・・あそぬまじょう

所在地・・・栃木県佐野市浅沼町(旧佐野市)

築城年・・・1177〜80年

築城者・・・阿曽沼広綱

主な城主・・・阿曽沼氏


御家人の地位を確立

 阿曽沼城を築いた阿曽沼広綱は、藤姓足利有綱の子であり、佐野氏の祖基綱とは兄弟に当たる。
 1183年、源頼朝の叔父志田義広が叛旗を翻し、常陸で挙兵して下野へ進出してきた。小山朝政はこれを野木宮で迎え撃ち、奇襲によって破ったのが野木宮合戦。この合戦が阿曽沼広綱の初陣で、志田義広は混乱する軍を古河付近でまとめようとしたが、ここに待ち受けていたのが阿曽沼広綱らの軍勢であり、志田義広は敗れて敗走した。
 広綱は野木宮合戦後、平家追討、奥州藤原氏攻めに参加し、広綱の後は、広綱の長男政綱、政綱の弟親綱と続いた。親綱は、1221年の承久の乱の際、その名が京都まで鳴り響いたという。
 阿曽沼氏の御家人としての地位は、この広綱、政綱、親綱の3代でほぼ確立した。

遠隔地支配

 阿曽沼氏は、遠隔地に所領を持っていた。その主なものは、奥州藤原氏攻めの恩賞である陸奥遠野保(岩手県遠野市)、承久の乱の恩賞である安芸世能庄(広島県広島市)。親綱は遠野保で横田城を築き、世能庄では鳥籠山城を築いて、これらを統治した。
 親綱の子で、政綱の養子となった光綱は、御家人としての役目を辞退した。当時、執権北条氏の勢力が隆盛していて、適当な理由をつけて役目を辞退する御家人が少なくなかったようである。光綱の場合は、落馬によって鎧をつけられないという理由だった。
 南北朝時代には、遠野保や世能庄などの庶流が本家から独立した。本家阿曽沼氏は戦国時代に古河公方足利氏に従い、また別の一派は佐野家に仕えて鎧塚阿曽沼城を築いたりしたので、阿曽沼城は廃城となった。

<現在の状況>

 浅沼八幡宮の境内に立派な堀が残っている。大切に保存されて、実に素晴らしい。


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