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唐沢山城
読み・・・からさわやまじょう
所在地・・・栃木県佐野市富士町(旧佐野市)
築城年・・・不明
築城者・・・佐野盛綱
主な城主・・・佐野氏
謙信の佐野攻撃
1560年から上杉謙信は関東出兵を行い、北条氏と長年にわたって戦った。その間、唐沢山城を居城とする佐野昌綱は、上杉氏と北条氏の間を揺れ動き、謙信は以下のように佐野を10回攻撃している。
1回目・・・1561年12月10日。
2回目・・・1562年2月〜3月。
3回目・・・1563年4月。
4回目・・・1564年2月。
5回目・・・1564年11月。
6回目・・・1566年2月。
7回目・・・1567年2月〜3月。
8回目・・・1567年10月27日。
9回目・・・1570年1月〜2月。
10回目・・1574年11月。
1561年11月、謙信は北条氏康と武田信玄が武蔵松山城を攻撃しようとしているとの報を受け、これを救援するために出兵した。そして11月27日に両軍は武蔵生山で戦った。佐野昌綱はこの情勢の中で北条氏に味方し、12月10日に謙信から攻撃を受けた(1回目)。謙信はこの冬は越後へ帰らず関東で過ごす。
1562年の正月を関東で迎えた謙信は、2月17日に館林城を攻略すると、続いて唐沢山城を攻撃した(2回目)。しかし謙信は唐沢山城を落とすことができずに撤退し、3月末に越後へ帰国。同年11月、松山城が北条氏康と武田信玄によって攻められ、松山城の救援要請に応じた謙信は12月16日に上野沼田に入った。
1563年2月に謙信は松山城を救援するべく向かうも、間に合わずに城は落ちてしまった。そこで謙信は矛先を騎西城へと向けて攻略、続いて祇園城を攻撃して落城させた。その後に謙信は唐沢山城を攻めて(3回目)制圧し、佐野氏は上杉方となった。4月下旬に越後へ帰った謙信だが、北条氏が勢力を盛り返したことで、謙信は再び関東へ出陣、閏12月19日に厩橋城へと入った。
1564年1月29日に謙信は宇都宮広綱と佐竹義昭を従え、北条方となった小田氏治を攻めて小田城を攻略した。上杉方となっていた佐野氏も北条方へ寝返ったことで、謙信から2月17日に攻撃を受けた(4回目)。佐野昌綱は宇都宮広綱と佐竹義昭の意見に従って謙信に降伏し、謙信は4月に越後へ帰国。すると今度は4月〜6月に北条氏が唐沢山城を攻撃した。北条氏は唐沢山城を落とせずに撤退したが、10月になると佐野昌綱は再び北条方へと寝返り、謙信は関東へ出陣する。そして11月に唐沢山城を攻めて(5回目)佐野昌綱を降伏させると、謙信は越後へ帰った。
1565年にも謙信は11月に関東へ出兵し、1566年2月に佐野に陣を敷いた。これが6回目の攻撃と見られるもので、その後、謙信は下総臼井城の原胤貞を攻撃するが敗れて5月に越後へ帰国した。9月になると上野金山城の由良氏が北条氏へ寝返り、謙信は関東へ出陣して12月20日に沼田へ入った。
1567年2月には佐野昌綱が北条方に寝返り、謙信は2月〜3月に唐沢山城を攻撃(7回目)。この時昌綱は、謙信の一族の中から養子を迎えたい旨を申し出て、長尾虎房丸が昌綱の養子となった。唐沢山城には色部勝長を城将として入れ、謙信は越後へ帰国した。佐野氏が上杉方となると北条氏が唐沢山城を攻撃する。この北条氏の動きを受けて謙信は関東へ出陣、10月24日に沼田に入った。謙信は10月27日に佐野に迫った(8回目)ことで北条氏は撤退した。謙信は11月27日に帰国するが、虎房丸や色部勝長ら、唐沢山城にいる越後衆も連れて帰った(越後衆の引き上げについては1564年説もある)。
1560年から毎年行ってきた関東出兵であったが、1568年は行われていない。この年は北条氏康と武田信玄の関係が悪化し、同年12月には北条氏・武田氏・今川氏との間で結ばれていた三国同盟が破棄された。
武田氏との関係が悪化した北条氏は謙信と接近し、1569年閏5月3日に越相同盟が結ばれた。同年10月には武田信玄が小田原城を攻撃するなど関東への攻勢を強めたことから、越相同盟に伴って謙信は11月に関東へ出陣した。
年が明けて1570年正月早々、謙信は上野方面の武田軍を攻撃するのではなく、佐野へ進軍して唐沢山城を攻撃した(9回目)。この謙信の行動は、北条氏をも疑問に思わせるものであり、謙信は4月に越後へ帰国する。
1571年10月3日に北条氏康が死去すると、跡を継いだ北条氏政は翌1572年1月15日、謙信との同盟を破棄して信玄と再び同盟を結んだ(甲相同盟)。謙信は閏1月に関東へ出陣するがすぐに帰国している。越中の情勢が悪くなり、謙信はその後しばらく関東へ出陣せずに越中への出陣を行った。
1574年1月26日、謙信は関東へ出陣し、上野の城を攻め落として5月に帰国。同年10月19に再び関東へ出陣した謙信は、11月7日に金山城を攻撃すると、鉢形領内や忍領内へも侵攻する。続いて足利、館林、佐野を放火しながら進軍し小山へ。これが謙信の10回目の佐野攻撃で、最後の攻撃となる。この時期、下総関宿城の簗田氏が北条氏から攻撃を受けており(第三次関宿合戦)、謙信は簗田氏から救援要請を受けていた。その関宿の対応を謙信は佐竹義重に一任すると閏11月に越後へ帰るが、その道中、謙信は騎西城や岩槻城を攻撃し、上杉方の羽生城に着くと、城を破却して越後衆を引き上げさせている。
北条氏忠
1574年閏11月に関宿城を攻略した北条氏は、以後北関東へと本格的に侵攻した。
上杉謙信が1578年3月13日に死去したことで、北関東の諸将は佐竹義重を中心として北条氏に抵抗する。1584年に起こった「沼尻の戦い」では、北条氏と宇都宮・佐竹氏など北関東における反北条勢力が争い、合戦は引き分けに終わった。だがこの戦い後、北条氏の勢力は一気に拡大していくこととなる。
1585年1月、佐野宗綱が足利長尾氏との戦い(須花坂の戦い)で戦死してしまった。宗綱には幼い娘はいるが男子がいないため、家督を誰にするかの問題が起こった。その結果、北条氏康の6男で足柄城主の氏忠を婿養子として迎えることになり、これにより北条氏系の佐野氏が誕生した。
氏忠は佐野氏の旧臣から人質を取って小田原へと送り、佐野昌綱や宗綱と同様の忠誠を誓わせた。
やがて豊臣秀吉の動きが関東へ向けられるようになる。北条氏は小田原城をはじめとし、各地の諸城の修築を行い、唐沢山城も修築が行われた。
1590年の秀吉の小田原攻めでは、氏忠は水之尾口を守った。北条氏滅亡後、北条一門30余名が高野山へと向かい、氏忠もその中に含まれていた。そして既に氏忠は佐野氏を離れていた。
佐野房綱と信吉
佐野宗綱の跡を北条氏忠が継ぎ、北条氏系の佐野氏が誕生した一方、佐野昌綱の弟で佐野天徳寺宝衍という人物がいる。
天徳寺宝衍は京都にいて秀吉に従っており、秀吉の小田原攻めにも参加している。天徳寺宝衍は小田原攻めの功によって佐野領が与えられ、名を房綱と変えた。
佐野房綱は領国体制を整備し、氏忠が佐野氏を継いだことに反発して出奔した旧臣達を再び召し抱えている。また、唐沢山城をの大改築へと乗り出し、本丸に石垣を用いたのもこの時である。
佐野氏の当主となった房綱であったが、養子には富田知信の子で信吉を迎えた。富田知信は秀吉の御伽衆であり、秀吉に近い人物の子が養子に入ったことになる。
秀吉の死去後、関ヶ原の戦いが起こって徳川家康が天下を取ると、佐野信吉は1602年に唐沢山城からの移城を命じられた。こうして佐野城を築いて移った信吉であったが、1614年7月28日に所領を没収され、身柄は松本城主小笠原家に預けられた。
<現在の状況>
唐沢山城は、栃木県内でも珍しい大規模な石垣を見ることができる。
<あわせて読みたいページ>
「佐野城」唐沢山城の後、佐野氏の居城となる。
「天徳寺宝衍(佐野房綱)の墓所」報恩寺にある佐野房綱の墓。
<佐野市の城一覧>
唐沢山城の地図→