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藤沢城
読み・・・ふじさわじょう
別称・・・鍋山城
所在地・・・栃木県栃木市鍋山町(旧栃木市)
築城年・・・不明
築城者・・・島津氏
主な城主・・・島津氏(小曽戸氏)
加賀局
足利有綱(藤姓足利氏)の娘、加賀局が有綱の遺領を相続し、梅沢、千手、寺尾の領主となった。加賀局の2番目の夫が島津忠佐であり、その子盛忠に梅沢、千手、寺尾の領地が引き継がれ、こうして下野国の島津氏が誕生した。
ちなみに、加賀局の最初の夫、狩野四郎左衛門尉との間にも子供があったが、その家は後に敵方となって滅亡したとある。
小曽戸氏
時代は下って戦国時代。島津氏は「小曽戸」と姓が変わり、佐野氏に属していた。
上杉謙信が度重なる関東出兵を行い、上杉氏と北条氏が激突。その際、唐沢山城の佐野氏は上杉氏と北条氏との間で、上杉氏が来ると上杉方に、北条氏が来ると北条方にと揺れ動いた。
小曽戸氏が戦功を挙げたのは、1564年に起こった戦いである。
1564年2月、上杉輝虎が唐沢山城を攻めた。2月27日の「佐野昌綱書状写」(島津文書)で、佐野昌綱は小曽戸長門守(泰忠)に、
「於諸口敵五十餘人討捕、手負数多仕出之候之事、誠以忠信手柄、無比類次第候」
と、その戦功を賞している。
この時の戦いは相当の激戦であった。佐野昌綱は、宇都宮広綱と佐竹義昭が間に入ったことにより、上杉輝虎と和議を行った。
虎房丸の件
上杉謙信と小曽戸氏との間で、「虎房丸」という者が絡んでいる。
年は不明ながら、北条氏と戦った小曽戸氏と小曽戸氏一族の梅沢氏に対し、上杉輝虎が書状を送って戦功を褒めている。その中で輝虎は、虎房丸の件を託しているのである。
小曽戸図書助に宛てた、6月4日「上杉輝虎印判状」(小曽戸文書)
「虎房丸事、為養子其元へ差越候」
小曽戸善三に宛てた、6月4日「上杉輝虎書状」(小曽戸文書)
「虎房丸事、為養子其元へ差越候」
梅沢兵庫助に宛てた、6月4日「上杉輝虎書状写」(小曽戸文書)
「虎房丸為養子、其許差越、彼家相続之事申合」
と、上杉輝虎が虎房丸という者を遣わし、佐野昌綱の養子として佐野家を相続させるよう述べている。
ただし、虎房丸に関しては、佐野氏の系図に「虎松丸」という名前が見え、両者を同一人物と見るか、別人物と見るかの問題がある。
また、虎房丸の件の書状年に関しても、1564年か1567年かについての問題もある。
<現在の状況>
藤沢城は丁寧に整備されている。本丸周囲の堀を一周でき、驚くほど見事な遺構が見られる。
<あわせて読みたいページ>
「梅沢城」小曽戸氏一族、梅沢氏の居城。
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